1日目に増毛、留萌、小平で留萌沖三船遭難慰霊碑、2日目に朱鞠内で笹の墓標強制労働博物館を訪ねるバスの旅で1700名以上の三船遭難者、200名以上の雨竜第一ダムと名雨(深名)線鉄道工事の強制労働犠牲者が、いつどこでどのように尊い人生を奪われたか記録と証言を基に学びました。犠牲者と関係者の心身の苦痛と無念と哀しみがこもる海や森や朱鞠内湖、慰霊碑やお墓、博物館の展示を、懸命に目を凝らして瞼に焼き付けました。
「留萌沖三船遭難~終戦秘話~」と題し、留萌市教委の方が子ども達に語り継ぐため精力的な取材で編まれた永久保存版の記録が教材の講話を、史実を現地で丹念に学び伝える尊いお働きに深く感動して拝聴しました。
殿平義彦ご住職の最新刊「和解と平和の森 北海道・朱鞠内に朝鮮人強制労働の歴史を刻む」(高文研)の帯の「「…博物館」はその発信基地として生まれた。」は、文中の「…今こそ、国境を超えて繋がり、朱鞠内から植民地主義の闇を照らし、和解と平和の未来を見晴るかす一筋の光になれたらと思う。」に続く文であり、太文字で「朱鞠内は東アジアの未来に希望の種をまく」と記され、半世紀も国と民族と年代を超えて共に遺骨と向き合う市民の実践は、絶望に陥りそうな国内外情勢をほんのりと希望の灯で照らします。
両日の「一同黙祷」はもちろん、各自が祈り続けたと思います。幾多の犠牲、理不尽と人権侵害、80年間定まらぬ史実の認識や評価、碑やお墓をめぐる不一致等を悼み、哀しみ、怒り、解決を願い、また漠たる罪悪感の赦しを乞う様々な祈りです。宗教者平和協議会公開学習会の殿平理事長講話で、日本が脱却できない植民地主義は、和人が侵略して上がり込んだ北海道に今平気で住む無神経・無自覚にも重なると学び、被害者への共感や正義感を突き詰めると沸き起こる加害者意識と自己嫌悪が痛く、恥じ、人間らしい出発点に漸く立てた想いは、水俣、被爆地、沖縄、ハンセン氏病療養所、在日韓国朝鮮人居住区等でも痛感したままです。
お話も展示も書籍も罪悪感を静かに強烈に覚醒させるに充分ですが、ご住職の「ぜひ朱鞠内にいらっしゃい」のお声もあり、やはり朱鞠内の草むらを吹き抜ける風に立ち、無辜の犠牲者の声なき声を聴かなければ!と念じました。いざ朱鞠内の地を歩き館長さんの明快で血の通う解説を伺うと、見聞の断片が俄かにつながり人の形になります。百聞は一見に如かず、現地の力は圧倒的です。現地で踏ん張り、こつこつ遺骨を探し大切に弔い、博物館を再建し、様々な障壁に挫けず慰霊碑やお墓を建立し、死者と生者に寄り沿い共に歩む古今の館長さん、ご住職、スタッフ、国内外の市民の皆様の想いと実行力と絆…死者と生者が生かし合い共生する奇跡を実感します。
長年生徒の平和・人権学習や奉仕の基とした「身体を運び隔ての中垣を壊し和解する」という聖書の句を実感する旅でした。現地を訪ね、時空、生死、加害と被害、知識と経験…様々な「隔て=距離や違い」を埋め、知り合い、共感する「和解」です。参加者の泉の如く溢れる平和活動の想いと実践の惜しみない共有も、戦争と差別と人権侵害に抗う旅の成果です。私も遠慮せず発信すべきでした。
皆様の参加動機であるご親族の生命に関わる劇的経験に比して軽薄ですが、母が生まれ幼児洗礼を受け、浜で市民が鰊を拾った留萌、父が戦時中一時勤労奉仕した樺太、父が戦後雪氷学者になり融雪観測に廃線までは深名線で赴き滞在した幌加内町母子里に近づけた気がします。
足の痛みと多忙で諦めた旅に旧知の先生のお誘いで参加して研修が深まり、生徒と介助奉仕をお導き戴いたお医者様、担任学級の授業をして下さった大学の先生、沖縄の痛みをお伝え下さる市民運動家の皆様と思いがけずご一緒して嬉しく、知人のご親族制作の「願いの像」にも出会い感無量でした。石段で皆様にご心配ご助力戴き申し訳なく存じます。旅システムとご参加の皆様、心より感謝申し上げます。
北海道宗平協・札幌YWCA 小島治子